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∞気流法お知らせ

「立つ」ことの広さ、深さへ 舞踏、武道、マリオネット

坪井香譲

ホームページも虹も人も風も立つ

一般的に言って、人や物事が人に認められるのは、それが〈立ち上がって〉いるからです。あるいは立ち上がってくるか立ち上がってくる可能性を秘めていると感じられるからです。逆に伏している物事も認められることだってあるのですが、基本的に潜在的なもので、混沌的で、その存在は鮮明ではないことが多い。
人の視野の中に入ってくるものは「立つ」ものです。人間は世界を前に立ててとらえる、現実の物質としての世界だけでなく、イマジネーションや思考の中でも人は「前」に置いてとらえる。
ですから、私たちは多くの場合、「立つ」こと、「立っている」ことを価値とする傾向がある。
大体、高い、低い、という価値の規準軸の置き方からしてそうです。
何か活動したり、この世界に碓個としたものを作り表すには、何といっても「立ち上がらせること」「立ち続けさせること」です。
家を建て、ホームページを立ち上げる(これは多分二十年前なら文法的にはマチガイだとされた言い方ですが今は普通になってしまっています)、創立する、確立する、戦うべく立ち上がる・・虹も、市(いちー昔のマーケット)も立ち、日本庭園も石を立てて造りはじめとし、お茶もたてる(点てる)と言い、弁も風も立つ。日本書紀古事記の神々もアメノミナカヌシ、タカムスビ、カムムスビをはじめ各々一柱(はしら)として呼ばれています。神々も立つものとして人間の前にあらわれたのです。
立つと同系統の言葉には断つ、太刀、建てる、龍などがあり、ある種のエネルギーの激しい、時には微妙な振り起こしを表します。そしてそれに近接するのが私たちが「タケのやわらげ」*1
という時のタケで、猛、岳、武、竹、丈・・です。これは野性の力を秘める働きです。
お茶断ち、酒断ち、断食などの「断ちもの」と共に、ほとんど祈りにも近い願い事をするのは、エイ!ヤッ!と一気に、あるいは静かに己の心を方向づけ、決着をつけ、新しい局面へと出る、意志、意思、意図があります。振り起こし、時に切断することが「タチ」で、もちろん「太刀」に通じましょう。これは創造の「創」がもともとは傷つけるという意味をもっていることと重なるようです。
けれど、断つや立つや龍の振るい起こしや激しさや荒々しさなどは、ことの半面にすぎません。



「立つ」営みの源はどこに

一体、人間が「立つ」ことは何によって、どのような仕組みで可能なのか、少し省みれば見えてくるものがあります。
人の直立二足歩行は、人が人となった原点です。そしてよく、重力に抗して立つ、と言われたりします。
そうしたとらえ方にはもちろん首肯できる面もあるのですが、何か充分ではありません。
本当は人は重力に対抗してでなく、むしろ則して立つ、のです。重力は対抗すべき働きでなく、むしろ「友」とすべき味方なのです。
また人は、大地に載せられてこそ、自立、独立が可能なのは当然で、立つことは、大地や自然の側からとらえるなら、大地に載せていることであり、立たせていることになります。もちろん空間も、立っている人間の三次元にひろがる体を包含している、ともいえます。
人は自(みずか)ら立っている、と同時に自(おの)ずから立たされている、この両面性、表裏はとても大切です。



立つレンブラントと、灰柱の歩行

レンブラントは立っている」という詩が、白樺派の代表的作家の武者小路氏にあります。絵を通して、画家の存在の確かさを謳ったものでした。
儒教の祖孔子は、十代で学び始め、三十(歳)で立つ、と述べました。思想などが学び(まね)から抜けて自立することでしょうか。釈迦は神話的エピソードの中で、生誕してすぐに天と地を指して立ち、最も尊い存在であることを示したとされます。ここに挙げた例は、どれも立つことそのものが存在の象徴になっている。その深さの可能性を示しているようです。仏陀のその時の言葉とされる「天上天下唯我独尊」は、アボリジニが、「天と地の間に立っている」と一種の儀式で立ちつつ言う言葉を思わせます。立つこと、存在することは、人が世界と宇宙と自然と祖先の霊と即一つの世界につながる、と示しているようです。
大野一雄氏に並んで舞踏の創始者である土方巽氏は「舞踏とは命がけで突っ立った死体」と述べました。「立っているんじゃなくて、崩れているんだ。そういう灰柱の歩行を舞踏の原点にしないと大変なことになる。」とも語っていたそうです。灰柱とは、たとえば仏壇に供える線香の燃えつきた灰がまだ柱状になっていて、いまにも崩れんとしている状態のものです。
レンブラントは立っている!という白樺派の作家の述べるのと異なり、この「立つ」はいつでも崩れそう。崩れつつ、崩れるように、崩れるからこそ歩行へと変化するのです。
いわば?無常?です。


九十六歳まで世界中の劇場で舞い、驚嘆された大野一雄氏も立つことについてとても美しい言葉を述べています。
レッスン中に・・
「・・命が存在する、立っている、というようなことがね、響いてこないと・・」
「重心が少し前にかかるようにね、前へ進むためには重心が少し前に、その次肋骨でね、肋骨をあるいは胸を前に突き出さないように、肋骨を引いて、頭のてっぺんを上の方に伸ばして・・力抜いてね、前の方に足から出ないで・・そうすると、ひとりでに足が、出そうと思って出さないで、前のほうにひとりでに出ますよ。」(大野一雄著『稽古の言葉』)
一雄氏のご子息、大野慶人氏は私(坪井)と体の中心軸について話し合ったとき、土方巽氏の言葉として「舞踏では薔薇の花を一輪、目前にかざして、薔薇の花になりたいと思って歩く稽古を七年続けよ、といいます。するとある時花がなくなって、自分が花そのものになる。そこに一筋のタテの線が現れる。そうやって自分の中に芯(草の心と書く)ができてゆきます。それは目に見えないけれど、あるのです。・・」と語ってくれました。



宮本武蔵とマリオネットの極意—「浮身」


ここで私が探求し実践してきた「武術」や「瞑想法」などでは、立つことはどのようにとらえられているでしょう。
私は一九七〇年代から述べてきているのですが、人が人となった原点の直立二足歩行は、何といっても「重力」あるいは引力とのかかわり方の大変革をもたらし、そこで人の視野も意識も言語もすべてが変わり始めました。そして日本の武道や舞なども、この直立について実践ととらえ方の両面で磨きぬいてきました。
宮本武蔵は、踵の踏みつけ方から眉根の寄せ方など、とても細かく身構えを示しながら、身そのものを荒縄でひっくくって、天から吊りさげられたような状態で動け、と説いていると聞きます。これに似ている発想は、柳生新蔭流などの剣術にあります。「浮身」といいます。足を踏んばらずに身を浮かしたように歩むのです。中国武術や空手にも「浮身」に似た発想と実際的な訓練法があります。(合気道の創始者植芝盛平翁は、極意を「天の浮橋に立つ」のだ、と説いていました。これも「浮身」と近い発想です。古事記に出てくる天界と地上を結ぶ橋ですが、私の理解では浮橋ですから両端が岸にくっつかずに架かります。相対的な世界にありつつ、そこに固執しない場(橋)に立つことだととれると思います。)


さて、私は、この「浮身」を、蓮の花の上に仏像が立っているような状態と述べてきています。人間や物の宿命である引力─重力とのかかわりが、通常の直立二足歩行からもう一つ変革されるのです。すると身の操作だけでなく精神も変容することになります。このことの詳細については別の機会に譲らなければなりません。


ともかく、対決や戦いの技術のはずの武術の「浮身」も、この菩薩や仏の立ち方と近いのです。
こうした構えは、重力とのかかわりが変革しているのですが、何も東洋の独占するものではありません。


先に宮本武蔵のところで吊られた身のことを述べましたが、西欧でも、フェンシングの極意をマリオネット(あやつり人形)のこつで解明する評論中のエピソードがあります。ゲーテも評価していたクライストという作家です。それはとても「浮身」に似ていて体捌きだけでなく、当然「心境」の自在さも伴っています。
浮身に限らず、芸や術の極意やこつについて、一応は手っ取り早く説明できる場合があります。けれど手っ取り早くできるようになることは決してありません。稽古、鍛錬、工夫という世阿弥や柳生流兵法以来の稽古の世界です。本当に身につけるのはなかなか一朝一夕ではいかないところです。そこで、実践、実現への導入法、いと口が必要です。


私も、実は、ずっと人間と直立、重力とのかかわりについて身体・意識・言葉の三つの関係で探求し、去年「マリオネットの原理」をあるきっかけで考案して行ない始めました。これが多くの人に納得できる「浮身」の実践のいと口になりそうです。
重力と人間のいとなみ、立つこと、二足歩行と呼吸のかかわりなどについては、とらえ方と実践法の両面でまだまだ述べなければなりませんが、次の機会に譲りたいと思います。
( 二〇〇九年六月十一日記)


ゆく秋の 大和の里の 薬師寺の 塔の上なる 一片の雲   
佐々木信綱  

足うらの 広さに人の立つ不思議 薬師寺のうえ 雲ながれゆく   
福田光子

*1:「タケのやわらげ」=∞気流法の動作法で、全身の気・血をまんべんなく巡らせ、全体(wholeness)の調和を計る