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∞気流法お知らせ

参加者寸言集 2009

∞気流法体験者の言葉から

肩の力を抜いて─腕の痛みも解消へ

主人と2人で料理屋をやってます。稽古第1日目、初めての「3R」で腕を上げましたが左腕が痛くて上がりません。困っていると先生が肩の力を抜いて無理しないでゆっくり動かして肘の重さを感じて…と指摘されました。毎日の生活の中、それらを心がけて動いていくと、間もなく痛みがなくなり、今は平気で動かせます。何とも不思議。稽古中、何でもなかったように動いてくれる自身の体にも感謝です。
(井戸上さん 気流法参加6ヶ月)

あるべき姿に還って

通常のお稽古では、体調にもよりますが、概して“あるべき姿”をとり戻せたかな、という実感があります。全体に疲れていたり、部分的な不具合があったりで、身体をいびつにする衣をまとっていたのが、お稽古の終ったあとは、それを脱ぎ捨てて関節が気持よくカチッと音を立ててはまり、五体が本来の自然体に、本来の自分に還った、という感覚でしょうか。
(十倉桂さん 同人誌『手の家』編集者)

「感じ」ながら動く心地よさ

腰椎の椎間板を三つ潰してしまい、常に腰痛や背部痛にさいなまれており、運動なんてとんでもないと思いながらも、でも動かなければこのまま動けなくなってしまうという恐怖感もあった時に、∞気流法と出逢いました。頭で考えるだけではなく、感覚を大切にして「感じて」動いてゆくエクセサイズをとても気に入っています(何気ない動作の内にきちんとした理論の裏づけも感じられます)。稽古中、一番不思議なのは、運動は無理と断じていた程の腰痛を全く心配せずに動けることです。ゆったりとした動きや時間に身を委ねられるのはとても贅沢な心地よさです。
(岡田早苗さん 主婦・鍼灸専門学校学生)

プロジェクト実現への応用

ビジネスの場では、自分と相手の呼吸の流れを意識化することで、話の流れを転換したり、新たな打開策を見いだしたりできるようになると実感しています。
また、プロジェクトのゴールに向けて困難な状況がでてきても、時空に拡大した意識でゴールに対するつながりを感じ取ることで、希望と意志を持続し、あきらめずに努力することができます。結果的に実現の可能性が非常に高くなっていると感じます。
(A.T氏 大手自動車会社研究所所員)

カラダに「縁側」を見つける

劇的なことは起こらないかもしれない。激しい動きをするわけでもない。しかし、気流法で腕の動きと腰等のカラダの内側のつながりがわかりだすとおもしろい。空間や大地との境界が有るけど無い、家の内と外が縁側でつながっているというようななぜか懐かしさを伴った感覚…。カラダが皮膚で閉じられているのではなく、それはたんに輪郭だったのかもということに気づくと体と心が少し軽くなったような気がした。日々の出来事も新鮮に劇的に感じるようになりそうだ。
(芝野浩史氏 グラフィックデザイナー)

カラダの後ろ側を意識する

「タケのやわらげ」で、意識の届きにくい背面、腰の中、足指などに意識がゆき届き、まるで光が射したようで、数十年来、苦手だった真向法の「楽座のポーズ」が簡単にすっとできるようになりました。また、ここというときの心身の集中と統一が加速したようです。
(小林順一氏 自営業)

柔軟な心のためのトレーニング

私は福祉関係で精神障害や知的障害のある人々と接する仕事をしており、表面的ではない関わりをもとうとすると、ともすると彼(女)らの持つエネルギーに翻弄されがちですが、そうならずに彼(女)らの思いを理解することができるのは、「タケのやわらげ」やその応用である<ひかりの武>の稽古が弾力性のある心の基本軸のようなものを養うのに役立っているからにちがいありません。相手を感じることと相手に働きかけることの最良のトレーニングに成ると思います。
(石川宗成氏 福祉職員)



坪井香譲の著作などから・・・

「生きている
息している
活々してくる


息を呑む感動、息もとまる喜び。
一息入れる安息、息もつがせぬ動き‥‥
一呼吸の中に、いのちの巡りがある。世界との出会いがある。


息こそ動作の究極。
呼吸こそ、あらゆる術、行為のエッセンス。
息に目覚め、息を活かす
それが私たちの目指す第一歩でもある。
まず、息吹を放て。」


「いのちの鼓動を体感・意識化する」


「正中線に快気が走る」


「浮身は「人間と重力」という古来の根本的な課題への見事な解答なのである。それはたとえば仏像や観音像が人間のあり方の理想像として蓮の花の上にふわっと立つ、という一つの答えとも照応している。」


「あなたが自分の体に<あいさつ>するとあなたは<世界>に新たに<あいさつ>し始めているのに気づく。
<あいさつ>とは<出会い>の際の相互の交感のことである。」


<ひかりの武・談>
「武道と瞑想は窮極は同じものだと思うことがあります。一人練習なんて、まさに自分との対話です。あるいは自然との対話と言えるかもしれません。」