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∞気流法お知らせ

芸術(わざ)の魅力と魔力 - 能に寄せて

続・遊筆 第十三号
二〇〇八年十一月十八日


坪井香譲

空気を切り裂くバイオリンの音

ある交響楽団コンサートマスターをつとめる女流ヴァイオリニストが、以前∞気流法の定期稽古に参加していました。彼女が宮本武蔵の『五輪書』を読みたいので、その出版社を尋ねられたことがあります。
大勢を前にして舞台の上で、多くの場合沢山の演奏家と共に弾くのは、まさに真剣勝負みたいなところがあるらしい。私は一度、他の著名な演奏家の練習場に招かれ、学生に教えている現場に立ち合ったとき、弾き出したその先生の弦の音が美わしさを含んでいても、まるで一太刀のうちに空間を鋭く切り裂くような気合いと力を感じて驚いたことがあります。
もちろん武術と音楽演奏は全く異なるものですが、時々刻々とその場を変化させ、生成してゆく、まさに「生きもの」であることはとても似ています。
様々ないわゆる技は、作用し、印象を与え、効果をもたらします。古語辞典によると「わざ」とは元々、そこにこめられている神意を指す、とあります。つまり只ならぬ働きをこめた効果をもたらす、ということでしょう。わざと(意図をもって)、何かの働きをもたらすことを「わざ」という。「態」とも書きます。その下の「心」を抜いた字「能」は「よくする」とも読みます。何かを可能にするもの。そして俳優(ワザヲギ)は訓練し抜いた術を通して、何かを生じさせることができる達者です。ヲギは「招く」という意味。只ならぬものを招きよせることです。

能楽の初源─阿弥の存在

元々、能楽師もまさにそのような働きを通して亡き者の魂を鎮め慰め、浄化します。舞台上で演じ観客を巻き込みつつです。また吉祥の神、スピリットを招来して人々を祝福するようにしくむ働きをします。能の始祖、観阿弥世阿弥の名の阿弥は元来は、少なくともその一部はおそらく一所不住の念佛踊りの祖一遍上人時宗の徒からはじまった名で、彼らは全国を行脚し、やがてたとえば造園など様々な特殊な術を身につけ、身分の上下にこだわりなく貴族や武家にも出入りしていたという。身分制度の枠の外にいたともいわれます。元々は、戦乱や飢饉などで夥しく累々と死んでいった人々を埋葬したり慰霊したりする営みを行ったと思われます。
もしかすると観阿弥世阿弥にもそういう「阿弥」の気風が家にあったのではとも思われます。(これは私が文献などにあたっていないので、私の単なる想像が入っているかもしれませんが。)
謡曲の多くは、様々な事情で浮かばれぬ亡霊を慰めたり、成佛させたりする物語です。と同時に大日如来、あるいは神道的にいうなら大直霊(おおなおび=グレート・スピリット)を招来したりもします。
能楽は物語、詩、歌、舞、地理や歴史などの情報の集積、建築や衣装デザイン等々の総合芸術であり、そういういわば〈真面目〉な営みにユーモア、滑稽な味つけが入りこみ、劇をスムーズに回転させてゆくものとしての狂言回しが加わっています。
このような精錬し抜いた「型」の演劇である能楽は、世阿弥の演劇論や上達論、禅竹の至妙といいたい程に芸と禅の融合した論説などと相まって世界でも最も高度にそして深さをもって完成した演劇の一つになっている、と思います。

現代は文化的な乱世である

この完成度が同時にしばしば課題をもたらすかもしれないのです。この「完成」の中で生きるべきか、その「完成」を追求すべきか、あるいはこの完成の枠のエッジに触れて世界と向うべきなのだろうか? エッジを「超えて」跳躍できるのだろうか?
つまりかつて能が田楽や猿楽等からはじまりながら洗練しつつ立ちあらわれ、能役者がおそらくは阿弥的な存在からその地位を世間に定めはじめたそういう「劇」を、今、現代にどう求めるべきでしょうか、それともそんなことは必要ないのでしょうか? それが鋭敏な役者にも観客にも問われるのかもしれません。
(少し突飛ですが、「古典」とされる落語に立川談志のこれまでの落語の否定すれすれの落語芸が危うく成り立っている、そういう例も思い起こされます。)


なぜ、そのようなことを述べたいかというと、今の時代は編集工学の松岡正剛氏もいうようにある種の乱世、とくに文化的な精神的な乱世の様相を呈していると思うからです。
それはもちろんたとえば能役者が能成立の初源の頃に「阿弥」と近接していたり、また少し後に別のジャンルの役者が河原乞食と呼ばれていたような中世や近世の混沌とも異なります。
今の乱世はそこに否応なく「技術」が関わっています。二十世紀迄の科学技術、産業─大量生産、大量消費の時代を経て、今、私たちが直面する、IT、グローバリゼーション、環境問題等、現代の最も深刻な事態に広義の「技術」が裏腹に関わっています。
にぎわい(賑はひ)、さいわい(幸はひ)のわい(はひ)は、生(は)えることで、増殖することです。
人の手になる技にただならぬ意が入りこみ、それがむやみに、脈絡もなく異常増殖したら、とてつもない災いをもたらし得る。技術─「わざ」こそがわざわい(災はひ)の元になる! わざには注意せよ! あるいは、わざを通してわざを「超えろ」!とも言いました。
今、私たちがこの古人の忠告をよく味わって「わざ」の意に触れなおすことができるのは、たとえばスポーツ化していない武道、芸術、医術、職人の手技等、最も原初的に直接的に素朴に揮われる「わざ」によってでしょう。五感、身体英知、そして必ずそれと共にあるはずの言葉や想像力を味わう中に、最も純粋に「わざ」の原点をとらえなおしてゆけるでしょう。
乱世はそこから何かが育まれる一つの機会となり得ます。室町末期、安土・桃山の乱れた時代にこそ剣術、華道、茶道等々日本の「型」の文化も現れてきました。今も、またもう一つの「身体文化」からのとらえなおしの時ではないかと思います。